満州事変 日本 悪い 4

日露戦争が終わった頃の中国大陸の様相。中国における列強の鉄道の権利と勢力範囲は密接に関連していた。, 歴史家や評論家のなかには、このときのハリマンの提案を日本が受け入れていたならば、大東亜戦争は起きなかったと指摘する論もあります。, たしかに大東亜戦争への軌跡をたどってみると、中国の門戸開放を求めたアメリカの極東政策と、満州の特殊権益を主張する日本との対立が大きな軸になっていることがわかります。, 人種戦争以外にも多くの要因が複雑に絡み合うことで大東亜戦争へと至りました。そのひとつが満州をめぐる日米の対立です。, アメリカの提案した満州の日米共同開発に踏み切っていれば、歴史の流れが変わったのかもしれません。されど、共同開発をしたからといって日米の抱える事情の違いが、埋まるわけではありません。, アメリカにとって満州は経済的な利権にかかわるだけの場所ですが、日本にとって満州は歴史的にも政治的にも経済的にも地理的にも特殊な場所であり、最終的にはアメリカとの対立は避けられなかったことでしょう。, 持てる国と持たざる国の抱える事情の違いは、両国の対立以外にたどり着く場所はなかったのかもしれません。, ー 挫折したドル外交 ー 3.1 昭和4年(1929年) 世界恐慌の到来; 3.2 日本政府と陸軍上層に反対される; 4 満州国を建国; 5 満洲事変の終結; 6 石原莞爾の計画が崩れはじめる. 北支の代表的外字紙である京津タイムスは「日本軍が居なければ済南の外人は悉(あまね)く殺戮されたに違ひなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再演を防止すべし」とまで論じた。 第一次世界大戦では戦勝国であった日本が、なぜ孤立していくことになってしまったのか。, 1924年、加藤高明内閣が成立して以降、立憲政友会と立憲民政党(憲政会)の2つの政党が交互に政権を担当しました。, 1923年、関東大震災が発災しました。 こうして清は長い歴史に幕を閉じ、滅びてしまいます。, 南京の孫文は、臨時政府の軍事的弱体を憂い、臨時大統領の座を袁世凱に譲ります(1913年) 戦争も辞さないと答えた学生が9割近くもいることは、現在の感覚からすれば信じがたいことですが、当時の世相を正直に反映しているといえるでしょう。, 日本人の大半が、これまでの中国側の排日運動に反感を覚え、軍事力を行使してでも満州を守ることを是としたのです。力による抜本的な解決を、日本人の多くが歓迎しました。, 幣原外交は理想を追いかけるばかりで、今そこにある危機を直視しようとはしませんでした。もはや幣原外交、および政府に任せていては満州を守れないと判断した関東軍が実力行使に及ぶことで、満州事変という結果が生まれたのです。, その意味では楽観主義や理想主義ではなく、現実に根差した外交が当時行われていたのであれば、あるいは満州事変は起きなかったのかもしれません。, 日本国民の圧倒的な支持を受け、このあと満州事変はさらなる深みへと日本を引き釣り込んでいくことになります。. 幣原外相はその後も中国の立場を尊重し、中国の内政問題に関しては一切干渉する意思はないと宣言しました。, 大陸からはロシア共産党と中国との急接近を警告する声が絶えず寄せられていましたが、幣原外相は耳を貸しません。, 「世上には支那が共産主義の国家となるかも知れないとか、自国に不利と認むる国際条約を破棄する計画があるとか云ふが如き臆説もあるやうでありますが、私はこれを信ずることが出来ませぬ。, 我々は常に希望と忍耐とを以て支那国民の政治的革新の努力を注視しなければなりません。要するに我々は支那に於ける我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加へ、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります」, 中国の共産化はあり得ない、中国と日本との間で結ばれた不平等条約を中国が一方的に破棄することなどありえないと、幣原外相は中国に信頼を寄せています。, こちらが誠意を尽くせば相手も歩み寄ってくれるに違いないという信念を、幣原外相は最後まで持ち続けたのです。, 歴史を振り返るとき、幣原外相が中国に寄せた信頼は、残念ながら完全な過ちであったことがわかります。幣原外交の理想とは異なり、現実は余談の許さない状況へと日本を追い込んでいきました。, 中国にしてみれば幣原外交のおかげで日本の報復を恐れる心配がないため、あえて日本人居留民を挑発するような行動に出ることが度々繰り返されました。日本人居留民が危険にさらされても、幣原外相は中国への軍事介入を許しませんでした。, 1925(大正14)年に孫文が亡くなると、孫文の率いた国民党内の権力争いが起き、内戦へと発展しました。内戦の結果、孫文の跡を継いだのが軍人である蒋介石です。蒋介石は中国を統一するために北伐を開始しましたが、その途上で欧米諸国や日本と数々の衝突事件を起こします。, wikipedia:蒋介石 より引用 蒋介石(しょう かいせき) 1887年 – 1975年 中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。, 1927(昭和2)年1月、北伐の最中、国民党は漢口のイギリス租界を突然接収し、さらに数日後には九江のイギリス租界も接収しました。この行為は明らかに、中国による九カ国条約違反です。列強の中国での権益を侵すことはしないと、中国は九カ国条約にて約束していたからです。, イギリスは漢口や九江など中国奥地に大軍を派遣することができないため、日本に共同出兵を求めてきましたが、幣原外相は拒否しています。, 3月には南京事件が起きます。北伐途上の国民革命軍は日本とイギリスの領事館とアメリカの金陵大学などに侵入すると、掠奪・暴行・殺戮を行いました。これに対してイギリスとアメリカは軍を送っています。イギリスは日本にも出兵を求めてきましたが、幣原外相はまたも拒否を貫いたばかりか、逆に英米に対して「内政不干渉」「円満解決」を説いています。, これに対し「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と天を仰いだのは、イギリスのオースティン・チェンバレン外相です。, wikipedia:オースティン・チェンバレン より引用 オースティン・チェンバレン 1863年 – 1937年 イギリスの政治家。大蔵財務次官・郵政長官・財務相・インド事務相・外相などを歴任。ドイツの国際連盟加盟に道を開いたロカルノ条約締結に成功してガーター勲章を授けられ、ノーベル平和賞を受賞。国際連盟を強力に支持して軍縮に尽力した。, 南京事件は英米の軍艦から砲弾を浴びせることで鎮静化しました。自国の勢力圏にある領事館や租界が襲撃を受けたとき、武力をもって取り除くことは国際的に認められています。英米が自国民の生命と財産を守るために軍を派遣したことは当然であり、国際法に照らしてもなんら非はありません。, むしろ一兵も派遣しなかった日本の対応の方が、国際社会から見れば異常です。日本領事館は占拠され、略奪にあい、もう少しで大惨事が起きるところでした。このときの様子は『南京事件警備記録』に次のように記されています。, 「婦女子に対して幾度となく忍ぶべからざる身体検査を強要しまさに陵辱に及ばんとしたる者さえあり、或いは男子を罵言乱打する等暴行言語に堪えず、居合わせたる官民はいずれも極力婦女子の安全に努めたり、然れども支那兵の暴力は停止する所なく自動車よりガソリンを持ちだし当館に放火し一同を焼き殺さんと放言するに至りたるを以って在留官民一同は本館裏空き地に集まり何れも死を覚悟す」, このとき領事館の警備に当たっていた一中尉は領事に制止され、抵抗することなく居留民とともに暴行を甘んじて受けました。帰艦後、中尉はこのような屈辱は帝国軍人として耐えられるものでないと割腹しましたが、一命を取り留めています。, 中国側の度重なる横暴に対して、黙って耐えるよりない現地にいる軍人の不満は、もはや抑えがたくなっていました。満州事変にて関東軍が政府の意向を無視して暴走したのは、こうした積もり積もった堪忍袋の緒がついに切れたからこそです。, 暴行され、略奪され、ときには命さえ奪われても、それでも相手を信頼して黙って耐えて抵抗しないことが正義なのか、それとも日本人居留民を守るために武力をもって自衛することが正義なのか、幣原外交の真価が問われました。, 国内の世論は幣原外交を一斉に批判しました。中国や満州にいる日本人を見殺しにするかのような幣原外交は「幣原軟弱外交」と罵倒され、政権は退陣へと追い込まれました。, 田中義一内閣が発足すると幣原外交を批判し、打って変わって積極外交が展開されました。現地の日本人を保護するために陸軍の派兵も行われています。, wikipedia:田中義一 より引用 田中義一(たなか ぎいち) 1864(元治元)年 – 1929年(昭和4)年 明治-昭和時代前期の陸軍大将・政治家。長州閥最後のリーダー。第26代内閣総理大臣。原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行。幣原外交を排難し、組閣後は中国に対する強硬外交を展開した。張作霖爆殺事件の責任を負って辞職。昭和天皇へ極秘に行ったとされる田中上奏文によって世界的に知名度があるが、田中上奏文は偽書として確定している。, 1928(昭和3)年4月、蒋介石の率いる国民革命軍(南軍)は第二次北伐を始めました。対する北軍の大元帥は張作霖です。, 南軍は4月中旬には洛南を包囲しました。このとき、洛南は交通の要所であったため多くの外国人が居住しており、日本人も1810人いました。, 南京事件のような外国人排斥が起きることを恐れた日本は、悩んだ末に洛南への出兵を決めました。市内の警備に当たっていた日本軍は5月2日、南軍総司令官蒋介石より、治安は中国側が絶対に確保するので日本軍の警備を撤去されたいとの要請があったため、それを信じ警備を撤去しました。, ところがその直後の5月3日早朝、ついに悲劇が起きてしまいます。南軍の兵が新聞販売店を襲撃したことを発端に、救援に駆けつけた日本軍と南軍の間で交戦状態に入りました。日本軍と南軍はまもなく停戦の申し合わせを交わしましたが、南軍の兵はこれを無視して市内で暴動を起こしたのです。, 東京朝日新聞は「日本人は狂暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」と、このときの緊迫した様相を伝えています。南軍によって12名の日本人が虐殺されました。虐殺の現場はあまりにも凄惨だったと克明に記されています。他にも殺害・暴行・陵辱・略奪の被害にあった日本人は百名を越えています。, 日本軍は済南事件に関与した高級武官の処刑などを求めましたが、革命軍は回答を拒否したため、済南城を砲撃し山東を制圧しました。このとき中国側の死者は3600人に達したと中国は主張しています。また、中国は済南事件を北伐を阻止しようとする日本軍の計画的な挑発であるとして、5月3日を国辱記念日としています。, 『ビジュアルワイド図説日本史』(東京書籍株式会社) より引用

ハリマンの計画は失敗に終わったものの、アメリカは満州への進出をあきらめませんでした。アメリカが仕掛けた第二の矢は、1909(明治42)年にノックス米国務長官によって為された全満洲鉄道の中立化提案です。, その内容は、満州の全鉄道を国際シンジケートで買収して所有権を清国に移し、借款継続中は国際シンジケートで運営する、それが不可能であれば列国共同で錦愛鉄道を建設し、満洲の中立化を実現する、というものでした。, ノックス提案とはドルの力によって満洲を門戸開放しようと企てるものです。当時のアメリカはタフト大統領のもとで、ドル外交を積極的に推し進めていました。ノックス提案もまた典型的なドル外交です。, wikipedia:ウィリアム・ハワード・タフト より引用 ウィリアム・ハワード・タフト 1857年 – 1930年 アメリカの政治家。第27代大統領。第10代最高裁判所長官。フィリピン植民地総督を務め、ルーズベルト政権下で陸軍長官となる。桂‐タフト協定や日米紳士協約を締結し、ルーズベルトの後継者として共和党より第27代大統領に当選。「ドル外交」を推進した。, しかし、その提案は満州のおかれた現実を無視した身勝手な理念でしかありません。門戸開放に道を開くだけにアメリカにとっては大きな国益に繋がりますが、満州に切実な利害を持つ日本とロシアにとってはまったく歓迎できない提案です。, イギリス・フランスも同意しなかったため、ノックス提案は葬られました。最終的にアメリカの野望は実らなかったものの、一企業家のハリマンが矢面に立った前回とは異なり、今回はアメリカ政府自身が公式に満州に介入しようと謀ったことにおいて重要です。, その意味では満州をめぐる日米の抗争が幕を開けたのは、このノックス提案がはじめてと言えるでしょう。アメリカが日本を仮想敵国としてロックオンしたのも、満州を舞台にした日米の対立構造が大きく影響しています。, 1913(大正2)年に、前大統領セオドア・ルーズヴェルトは「不幸にして余の退任後、日本に対して徒(いたず)らに刺激多く効果少なき、極めて不賢明で誤れる政策が採られるに至った」と、タフト大統領による満洲介入政策を批判しています。, wikipedia:セオドア・ルーズベルト より引用 セオドア・ルーズベルト 1858年 – 1919年 アメリカ合衆国の軍人・政治家で、第25代副大統領および第26代大統領(在職1901~09年)。中国市場に参画するためにハワイとフィリピンの領有を画策し、アメリカが対外的に膨張していく基礎を築いた。日露戦争では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞。白船艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ、強大化しつつある日本を牽制した。, 満州鉄道を得た日本は、期せずして大陸経営に乗り出すことになりました。その際、問題となったのは開発資金をどうやって工面するかです。, ロシアから賠償金を取れなかった日本政府には、開発に回せるような資金はどこにもありません。そこで政府は南満洲鉄道を半官半民の会社にすることにしました。運営自体は国が責任をもつものの、資金の半分は民間に売り出す株を通して賄うことにしたのです。, 総資本2億円で設立されたのが「満鉄」です。政府が1億円を出し、もう半分は満鉄株を売りに出しました。政府が後ろに着いているだけに満鉄株の信用度は高く、株式募集の倍率は一千倍に達し、瞬く間に売り切れました。, 政府の捻出する1億円は、すべて現物支給です。ロシアから受け継いだ鉄道や炭坑の土地などが充てられました。政府は満鉄の設立に対し、1円の現金も出していません。, さらに、満鉄の初代総裁に就いた後藤新平はのちにロンドンで社債を発行し、2億円を調達しています。こうして合計4億円の資本金で満鉄による満州開発事業が始まったのです。, wikipedia:後藤新平 より引用 後藤新平(ごとう しんぺい) 1857(安政4)年 – 1929(昭和4)年 明治 – 昭和初期の政治家・医師。南満州鉄道初代総裁として数々の事業を軌道に乗せた。逓信大臣・鉄道院総裁・内務大臣などを歴任。東京市長。関東大震災直後に帝都復興院を創設し、被災した東京の復興に尽くした。その際の東京復興計画は「大風呂敷」と評されるも、現在でも有効だとして高く評価されている。, 4億円は当時の日本の国家予算と同額です。失敗すれば国家の経済が傾くかもしれないほどの巨額の資金が投入されただけに、満州開発は日本の国運をかけた一大事業といえます。, 満鉄が誕生した頃はハルビンの南の長春郊外から大連に至る鉄道と、日露戦争中に物資輸送のために建設された、安東と奉天の間にあった軽便鉄道である安奉線の2つの鉄道、およびその附属地の開発のみが日本に許されていました。, もっとも附属地といっても鉄道に沿う細長い土地ばかりでなく、停車場のある地方ごとの従業員の居住区と商人のために広い市街地も含まれていました。, 鉄道が敷かれていたとはいえ、まだ満州は未開発地域でした。広大な荒れ地が広がるだけで緑がなく、半ば砂漠地帯でした。, 満鉄は鉄道が通る大連・奉天・長春などの近代的都市計画を進め、上下水道や電力・ガスのインフラを整備し、学校や図書館・病院を造りました。湾岸の整備と炭鉱の開発を行い、製鉄業を興し、食糧供給のための農林牧畜も管理しました。品種改良を重ね、満州大豆を国際的な商品として販路を広げたのも満鉄です。, 満鉄は単なる鉄道会社ではありません。警察・税金・水道・電気事業などを直接管理していました。つまり満鉄は、日本政府に代わって満州開発のすべてを取り仕切るミニ政府としての役割を果たしていたのです。, 多くの日本人が情熱を傾けただけに満州の開発速度は凄まじく、1907(明治40)年には全中国において10位の貿易港に過ぎなかった大連が、1917(大正6)年には上海に次いで第2位に躍進しています。, 中国本土が乱れに乱れ、日本における戦国時代のように群雄が割拠して相争うなか、満州だけは近代都市として順調に発展を遂げました。, ポーツマス条約によるロシアからの権益移譲には、清国の承認が必要でした。そこで日本はポーツマス条約を交わした年に清国と日清条約を結び、ロシアから遼東半島の租借権と南満州鉄道の支配権を得たことの承認を清国から取り付けました。, その際、重要な取り決めを清国との間で交わしています。それは、日本の南満州鉄道と並行する幹線や支線を建設しないことを清国が承認したことです。, 日本の満州開発の基盤となるのは南満州鉄道です。南満州鉄道のもたらす利潤こそが、満州開発の元手です。もし清国が南満州鉄道と並行して走る鉄道を新たに設けるとなると、南満州鉄道の利潤は吹き飛び、日本の満州開発はたちまち滞ってしまいます。, 日本が清国に対して南満州鉄道と並行する幹線や支線を建設しないことを約束させたのは、当然のことといえるでしょう。, ところが中国は、のちにこの約束を勝手に破ります。そのことは、満州事変が起きたひとつの要因です。, 意外に思うかもしれませんが、日露戦争後に日本とロシアは急接近し、満州を二分して互いの権益を相互に認め合うようになりました。いわゆる日露協定です。, 長春から南の南満州が日本、長春から北の北満州がロシアの勢力圏であることを、日露は清国には黙って秘密裏に確認し合いました。, 南満州にも北満州にも鉄道はありますが、線路は続いています。ロシア側から長春に着いた列車は、乗客も貨物もそのままで運転手と車掌が交代し、食堂車がロシア式から日本式へと入れ替わりました。, 面白いのはまだ飛行機がなかった時代にもかかわらず、1913(大正2)年にはベルリン・パリ・ロンドン行きの一枚の切符が東京・横浜・京都・大阪の各駅で購入できたことです。, たとえば東京からパリまでは、まず東京から下関まで鉄道で向かい、下関で関釜連絡船に乗って朝鮮半島へ渡ります。そのまま鉄道で満州に入るとハルビン経由でモスクワを通り、ヨーロッパへと抜けるのです。, 一枚の切符だけで東京からパリまで14日間で到達しました。鉄道好きにとっては、なんともいえない浪漫を感じさせます。ちなみに運賃はロンドンまで大人294円11銭だったそうです。現在の料金にして30万円ほどです。, 日露協定は4回におよび、先述のノックス米国務長官による満州への介入を日露で協力して防ぐなど、蜜月時代は1917(大正6)年のロシア革命まで続きました。, しかし、ロシア革命後はボリシェビキ(ソ連共産党の前身)によって日露の密約が中国にばらされ、中国の反日感情を高めることになりました。, 満州の歴史を語る上で欠かせないのが、1911(明治44)年に中国で起きた辛亥革命です。この革命の中心となったのが、中国革命の父と称される孫文です。翌1912(大正元)年、孫文によって中華民国が建国され、清朝は滅亡しました。, wikipedia:孫文 より引用 孫文(そん ぶん) 1866年 – 1925年 中国の政治家・革命家。中国国民党の創設者・指導者。中華民国の創始者として「国父」と称される。初め医師となったが、救国の志を抱き革命運動に入る。東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の三民主義を掲げた。辛亥革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱に譲る。清朝を打倒しただけで革命は失敗に終わった。袁世凱の独裁化に抗して第二革命を開始。国共合作を成し遂げ国民革命を志向したが、実現を見ないうちに没した。「大アジア主義」を唱え、後世に多大な影響を与えた。, 教科書ではそのように教えられるため、中華民国があたかもひとつの国のように思われがちですが、その実態は国家とは呼べないものでした。中華民国は軍閥(ぐんばつ)の袁世凱に乗っ取られ、中国は「軍閥混戦」と呼ばれる大動乱時代に入ります。, wikipedia:袁世凱 より引用 袁世凱(えん せいがい) 1859年 – 1916年 清朝末期の軍人・政治家。甲申事変(1884)の際、清国軍をひきいて朝鮮に武力介入し日本と対立。のち北洋軍閥の総統となり、辛亥革命後は清帝の退位を実現し、孫文に替わり中華民国臨時大総統となる。初代中華民国大総統に就任後、帝政実現をはかるが対華21ヵ条要求受諾による反日気運と反袁運動のなかで病没。, この頃の中国の状態をイメージするには、漫画とアニメで流行った「北斗の拳」を思い浮かべるとよいかもしれません。北斗の拳では各地で無法者が街を乗っ取り、その地に暮らす人々を苦しめていました。当時の中国も同じで軍閥が各地で幅を利かせ、その地で暮らす住民に重税を課すなど、まさに無法地帯と化していました。, 国内の治安を維持できるだけの力をもった中央政府はなく、軍閥が抗争を繰り返していたのです。, 「軍閥」といっても日本にはなじみがないため、イメージしにくいものがあります。「軍閥」とは、ひとつの小さな軍事独裁国家のようなものです。 参考文献など:諸説 日本史図録,一気に読める「戦争」の昭和史,Wikipedia.

清朝の頃、満州が清朝の一部であったことは間違いありません。問題は辛亥革命によって清朝が滅亡した後です。, 辛亥革命の本質は、漢民族による清朝からの独立運動です。独立運動に成功して清朝から念願の独立を果たした中華民国は、清朝が支配していた地域をすべて中国固有の領土であると宣言しましたが、その正当性には疑問が残ります。, なぜなら古来より中国固有の領土は、万里の長城の内側に限られていたからです。有史以来、中国は「万里の長城」をもって北の国境線と定めてきました。漢や唐の時代に支配を長城外に拡げた時代もありましたが、ほんの一時的な期間に過ぎません。, 満州は万里の長城の外に広がっています。その意味では、満州は中国固有の領土とは認められません。

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